土曜日の午後、暑い中東大まで行ってきました。
龍岡門から入ったんですが、100mおきくらいに私服刑事らしき人達がいたんですが、
アレはなんだったんでしょうか?
さて、小柴ホールで開催された
科学コミュニケーション研究会に行ってきました。
第2回研究会 開催のお知らせコミュニケーションとは何か~信頼のメカニズム,プロパガンダ・宣伝と広報の違いを知る~
科学に関するリスク情報は人々の間でどのように処理され,あるいは信頼されるのでしょうか?また,「プロパガンダ」や「宣伝」と,公共性を重視する「広報」,あるいはコミュニケーションの違いはどのようなものなのでしょうか?これらを基に双方向に信頼を保つ科学コミュニケーションの在り方について議論します。
ということで、今回のテーマはかなり興味がありました。
午前中の私用が長引いたので、13:30ころ到着。
すでに家内埋まっていて、なんとハンドアウトが品切れでした(orz)
「リスクと信頼をめぐる心理学」中谷内一也 同志社大学 教授信頼というのをどう考えるかというふうに捉えると、
専門スキルと態度(公正さ)の組み合わせではないか。
という話でしょうが、科学コミュニケーションというのが、
科学の専門家が真面目に研究しているから大丈夫という問題ではなくなった時代だから
重要な場所に登場したわけで、この信頼の構造をどう考えるかは大事なことだと思いました。
ただ気になったのは、システム1(直感、暗黙知)とシステム2(論理、抽象)という
二つの意思決定プロセスの話をするときに脳科学の知識を絡めていないのはどうなんでしょうかね?
「社会心理学は脳科学との連携を高めなければ」という
北大・山岸先生の話を持ち出すまでもなく、
社会心理学の見地を裏付ける脳科学の発見をこうした成果に活かして欲しいです。
で、このシステム1とシステム2というのは、
実は個人の中で意思決定の際に、一人称と三人称の対立というか、
どう行ったり来たりするかという問題だと気が付きます。
「マス・コミュニケーションの系譜学―宣伝/広報と輿論/世論を例に」佐藤卓己 京都大学准教授『輿論と世論』で高名な佐藤先生です。
メディアとか広報とか広告とか言うのは私のコアコンピタンスですから、
かなり突っ込みどころもあったのですが、それはマーケティングの視点がないからですね。
それはパプリックリレーションとパブリックアフェアーズの関係についてご存じなかったことからも明瞭です。
まあ、そこは仕方が無いとして、輿論と世論というのも『三人称』と『一人称」の対立です。
論理的で社会全般の正義を背景とするか、感覚的で自分の利害に直結した損得を優先するか。
総論賛成、各論反対というのは、この対立関係を現してますよね。
「研究者の立場から 信頼される災害情報のあり方とは」大木聖子 東京大学地震研究所 助教地震というな日本で特殊な環境におかれた研究分野の事情と、
地震予知という日本では長年議論されている「科学と社会」のねじれを説明していただきました。
イタリアの地震予知と科学者が検察の操作を受けている話は今後に興味がわきました。
これも、全体論として余地の問題を考えるか、我が身の問題として考えるか。
静岡や宮城の問題に留めるのか、いつ自分の街に起きるかも知れない問題と考えるのか。
そう考えていくと、「三人称の地震予知」と「一人称の地震予知」の対立問題と考えることが出来ます
「研究者の立場から 知の構造化と天文学」高梨直紘 東京大学生産技術研究所 エグゼクティブ・マネジメント・プログラム 特任助教天プラの高梨さんがいつの間にか東大で凄いプログラムに関わっていました。
東大のEMPって、600万円という授業料で話題になりましたが、
教養あるエグゼクティブを育てるという大それたプロジェクトです。
日本にサロンができるとすれば、此処から始まるのかも知れません。
それはさておき、高梨さんの話は実に興味深く、天プラの活動も、
知の構造化が必要で、それは専門家ができることなのに、やってないことではないかという問は
まさにそのとおりだと思いました。
研究成果を「研究分野内での時間軸」と「研究分野を超えた水平軸」の両方で捉え、
構造的に考えていく訓練がどうも研究者にできてないなと感じることが多い私には、
実に納得の良くお話でした。
これもまた、「三人称としての研究」と「一人称としての研究」の対立関係の問題と捉えられます。
公知の中でどういう研究を行うのかと、自分の興味としての研究をどう位置づけるのか。
それが、時間軸と水平軸の中で研究を眺め直すということなのでしょう。
私は、勘違いしていて、ここで「まとめ」っぽいコメントをしてしまいました。
あとお一方いたのに。
「科学ジャーナリズムの立場から:議題構築機能を果たすために」田中幹人 早稲田大学大学院政治学研究科 ジャーナリズム・コース 准教授早稲田の
マジェスティという略称で知られた科学ジャーナリストコースは、
政治学研究科の中に残ることになったんですね。
議題構築(アジェンダ ビルディング)という言葉を議題設定(アジェンダ セッティング)に代わって
科学ジャーナリズムや、科学コミュニケーションに重要なものとして置きたいという話は、
なるほどとうなづかされるものでした。
ただ、ジャーナリズムとかジャーナリストの立ち位置が専門家と公衆の軸とは別の第三の軸だ、
という指摘は、あまりに旧来的な感じが否めませんでした。
それは、専門家と公衆という軸自体にも感じますが、
さらに最後に、その全体を大きく公共でくくるのも違和感があり、
この違和感がどこから来るのか自分自身でもう少し考えないといけないんですけどね。
というような、流れと感想でした。
「三人称と一人称の対立」というのは、この問題に限ったものではないのですが、
私が、中途半端なまとめでコメントした言葉には続きがあって、
その中間領域として「二人称」をどう考えるのか、というのが本当は言いたかったことなんです。
それは、科学の問題というのは、いまや単なる知の拡大を否定するか肯定するかではなく、
「命の問題」が背景にあるからもめているわけです。
災害も、GMOも、iPS細胞も、地球温暖化も、その先の「命の問題」が科学で扱えないことが
実は、科学と社会の利害関係の対立になるわけですね。
命が救えない問題に公的な金が払えるかどうか、ということなわけです。
その生命というのは、三人称なのか、一人称なのか。
三人称の命を議論するのは、なかなか落しどころが見えません。
一人称の命とは、自分の命ですから無くしたら世界が終わるわけです。
そして、人間が一番悲しむのは二人称の死であり、大事にしたいのは二人称の命です。
二人称の死とは、自分の大事な人の死だからです。
二人称を想像することで、三人称と一人称の間をどうつなぐのか。
それが科学の今後に重要であり、科学コミュニケーションに必要な想像力ではないでしょうか。