科学ジャーナリズムと、経済ジャーナリズムとか、政治ジャーナリズムとかが、
どう違うというのだろうか?
違いたいのか。違うと信じているのか。
しっかりして下さいね@なぎのねどこ>科学部デスクさん。
今頃、そんなこと言ってちゃダメじゃん。いや、まったく。話しかけられている科学部デスクはこちら。
様変わりした科学者らの広報戦略@読売オンライン科学コラム
科学部デスク 保坂直紀さんの署名コラム。
>科学記者を始めた20年ほど前、記者の訪問を歓迎しない科学者は、けっして珍しくなかった。「新聞記者との付き合いには何のメリットもなく、時間の無駄。記者と親しい科学者は、同僚からうさんくさい目で見られる。真理の探究に没頭する科学者が、記者なんていう世俗を相手にしては沽券(こけん)にかかわる」というわけだ。それが今は、まったく違う。科学者も、研究に税金を使うからには自分の仕事を積極的に世間に説明するのが当然だとみなされ、大学や研究所はメディア戦略を練るまでになった。変われば変わるものだ。確かにこの通りだったし、今でも、そういう感覚の科学者は年配者には多い。
でも、テレビがあるのが当たり前で、ネットがあるのが当たり前の世代が同じ訳がない。
科学記者の方が、若手が少ない(科学者よりも出世が遅い気がする)からか、
この感覚は未だに科学ジャーナリズムに根深いように見える。
まあ、日本に科学ジャーナリズムがあればだけど(その話は別の話で)。
>当然ながら、科学ジャーナリズムは科学者集団に奉仕するのが仕事ではないから、科学者が満足することは、それが良質なジャーナリズムであることを意味しない。科学者側の広報が巧みになればなるほど、科学ジャーナリズムは科学者集団のたんなる宣伝係で仕事をした気になってしまう恐れがある。これなんですけどね。
日本銀行を初めとする銀行、証券などの金融系企業に働
く「専門家」「研究者」「アナリスト」などの「経済人」と、
経済部記者、経済ジャーナリストが展開する経済ジャーナリズムの間では、
「経済ジャーナリズムは経済人集団の単なる宣伝係」になってはいないのだろうか?
同様に、「政治ジャーナリズムは政治家集団の単なる宣伝係」になってはいないのだろうか?
科学ばかりが、そこを「うるさく」言われている(誰から?)ように思うし、
必要以上にジャーナリストたらんとしているように思う。
新聞記者は、専門家集団の宣伝係になっていないのだろうか?
> 「サイエンス」や英国の「ネイチャー」に載る科学者の論文を、どの新聞も毎週のように記事にして紹介している。その多くが、これらの論文誌の巧みな広報資料や研究者の記者発表をもとにしているのだが、これなどまさに、何を社会に伝えるかは自分で決めるというジャーナリズムの要を、科学者集団側になかば預けてしまっているのではないか。
自分でネタ探しをするよりも、このほうがたしかに効率的なのだ。日本には記者クラブという制度があって、
「大本営発表」を言われたままに報道するシステムができている。
その方が「効率的」だからだろう。
でもそれは、ジャーナリズムとして「堕している」ことにはならないのだろうか。
> 米国の科学ジャーナリズムの教科書には、科学者たちはマスメディアを自分たちの広報機関のようにとらえるものだと書いてある。科学ジャーナリズムは、広報戦略に長けてきた科学者たちとどう付き合っていくべきか。その哲学と戦略を、こちら側も改めて肝に銘じておかなければならない時代になった。今まで「哲学も戦略も」無いままに「科学報道」してきたんですね。
なぎさんじゃないけど、「今頃そんなこと言ってちゃだめじゃん」だな。
科学者が様変わりしたのではなく、科学ジャーナリズムが堕しただけじゃないの?
科学記事への注目や、科学ジャーナリズムへの注目が小さいウチは、
科学者に理解がないから記事が書けないと嘆き、
科学者が広報の役割を理解したらば、
科学者の言いなりにはならないと言いながら、大本営発表を書き散らす。
科学記者は、どうしたいんだ?
「科学ジャーナリズム」などではなくてよいので、
「科学報道」をきちんとして欲しい。
科学者の説明をきちんと聞き直して、わかりやすい説明を求めて欲しい。
それは、科学者の言いなりにならないことなのではないだろうか。
少なくても「間違いのない」、「理解しやすい」記事をお願いします。
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