【視点】「再現性」と「一回性」の間で揺れる「科学という考え方」
似たようなタイトルで小保方問題の話を書いてしまったのだけど、本当は、「美味しんぼ問題」も一緒に書こうと思っていたら、長くなりすぎたので、別にしました。
「美味しんぼ問題」も実は、「再現性」と「一回性」の間にある対立で、こちらは、「科学という考え方」が政治に使われている点で問題が複雑なんだと思う。
「再現性」を信奉する人は、データを出せ、というし、
「一回性」を信奉する人は、「体験が全て」だという。
鼻血が出た人がいるかどうか、ということと、自分は鼻血が出た、ということの間には大きな溝がある。
でも、私は問題だと思うのは、そこに政治が絡んでいること。
しかも、政治家が「科学という考え方」を金科玉条のように振り回すこと。
政治家は、科学という考え方から一番遠いところにいるもんだったんですがね。
彼らこそ、一回性(自らの体験、知見、見聞)をもとに、予算を引き出すのが仕事なはずなのに。
再現性を求めるのは、時間稼ぎだったはずなのに。
「科学という考え方」は、ある限界を有している。
それは、わからないことがあるということ。
ところが、わからないことがあることを許さないのが、最近の科学に求める風潮だ。
今、福島原発のそばで起きていることは(福島県でじゃないよ)、世界中誰も、歴史上誰も、経験したことがないこと。
つまり、「再現性がないこと」なのだ。
これは、科学が最も苦手とすることではないのか。
実験可能なことが起きているわけではない。
もう一度原発で事故を起こすわけには行かないのだから。
チェルノブイリで起きたことも、スリーマイルで起きたことも、広島、長崎で起きたこととも、福一で起きたこととは違う。
だから、再現性がない一回性の中で、今、現実は進んでいる。
そこに、「科学」を持ち出すのは、実は非科学的だと思う。
ひたすら目の前のイベントのファクツをデータ化する作業が必要なのであって、
(これ日本語でぴったりな言葉がないんだよねえ)
「大丈夫なはず」とか言っている場合ではないのだと思う。
わかんないんだから。
ここで、「はず」とか「おかしい」とか言っていると、水俣病やイタイイタイ病の時と同じように原因特定が遅れるのではないか。
まだ見たことがない、経験したことがないことが起きていることを前提に、いろんなことに対処するのが「政治」の仕事でしょう。
あらゆることが、すでにわかっていると思うから「想定外」とか言い出すわけです。
お前の想定なんぞ、その程度のものなんだから、想定外が起きることを想定しておけよ、と言いたい。
美味しんぼについては、漫画を読んでないので、論評できない。
でも、そこで書きたいだろうことを「おかしい」「そんなことはない」と言っていては、何も見えない。
雁屋哲さんは、クリエイターなので、一回性を重んじるだろうから、再現性の話など受け付けない。
(それにしても、反原発運動にクリエイターだのアーティストだのが多いのは、やはり一回性の人たちだからだろうか)
原発事故が再現しないように、一回性の中で終わるように、今何をしなければならないのか。
それを訴えたいのだろうから、福島県の人たちに謝るとか、風評とかいうこと以上に、「話題になる」ということが大事で、その仕掛けにまんまとみんな乗せられたという点では、雁屋さんの目論見は成功しているのかもしれない。
政治家が「科学という考え方」を持ちだして、不都合な真実とやらを封鎖しようとしても、今起きていることは科学ではわからない、ということを言い出している人は説得できない。
それは、再現性と一回性の間にある大きな溝であり、理解し合えないすれ違いの議論だ。
今大事なのは、何が起きているかを拾いだして記述し続けることではないか、それが後で「科学的に」解析され、二度目に役に立つだろう。残念だけど。
今は、ひたすら目の前に対応し続けるしかないのではないか。
そして、対応というのは政治の必須であって、それを科学という考え方で単純化するのは危険ではないのか。
現実は複雑だけど、脳はその現実を単純化したがる。
複雑系がもてはやされるのも、複雑をシンプルな式で表せるとするからで、その単純化は脳が喜ぶのだ。
でも、この国の頭脳が、そんな単純化を喜んでもらっては困る。
美味しんぼ問題で、最も問題なのは、政治家が問題を複雑なまま捉えようとしないことである。